家督巡り切腹 教養の名君~豊臣秀次 豊臣秀吉の姉の子で、肉親の少ない秀吉にいろいろな場面で使われ、結局は悲劇的な最期をとげたことでも知られている。 秀吉は近江(滋賀県)の浅井あざい長政を攻めたとき、長政家臣の切り崩しにあたり、重臣の一人だった宮部継潤けいじゅんの養子に秀次を差し出した。のち、この養子関係は解消され、今度は、秀吉が阿波(徳島県)の三好康長を取り込むときに、康長の養子となっている。 豊臣秀次 文化人大名だった三好康長の影響を受け、文化面では、古典籍の保存と修復、芸能の育成などみるべき功績を残した秀次であるが、武将としての資質という点では、秀吉やその弟秀長にはるかに及ばなかった。豊臣秀次 天正12年(1584年)の尾張(愛知県)小牧・長久手の戦いでは、総大将として1万6000の兵を率いて出陣しながら、大敗北を喫し、2500人もの犠牲者を出してしまうということもあった。 豊臣秀次 それでも秀吉は、数少ない身内ということで、四国攻め、小田原攻めに大将として出陣させ、天正19年(1591年)には養子に迎え、関白も譲っているのである。 豊臣秀次 しかし、秀吉・淀殿の間に拾ひろい、すなわち秀頼が生まれたことで、秀次の運命は大きく狂わされることになる。このあと、どうしても秀頼に家督を譲りたいと考える秀吉にとって秀次は邪魔な存在となり、高野山に逐おわれ、そこで切腹させられた。残された妻子は侍女も含め、京都の三条河原で殺されている。 罪状は秀吉に対して謀反をおこそうとしたこととされ、また、秀次が罪のない人を殺したということで、「摂政関白」ならぬ「殺生関白」などといわれたというが、どちらも冤罪えんざいである。イエズス会宣教師ルイス・フロイスは『日本史』の中で秀次を評し、「万人から愛される性格の持ち主であった」と記している。 実際、滋賀県近江八幡市では、秀次を名君として現在でも称たたえている。それは、秀次の築いた近江八幡の城下町が町の発展の基礎になったからであり、町民のための町作りが随所にみられるからである。町の発展のために琵琶湖の水を引きこむ運河を作り、また、碁盤目状の街路とし、背割せわり下水という下水道だけでなく、上水道も整備させていた。この時代、上下水道完備の町は近江八幡だけである。豊臣秀次
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